鯉のぼり真鯉と緋鯉はなんでいるの?
もうすぐゴールデンウィーク。コロナ禍も落ち着いて、今年はお出かけになる人も多いでしょうね。
我が家では家で農業をしながら、のんびり子どもと一緒に端午の節句をお祝いします。
端午の節句といえば鯉のぼりですね。我が家も鯉のぼりを揚げました。
鯉のぼりの歴史「登竜門」
鯉のぼりはかつての武家社会において、お家の跡取りとなる男児の健やかな成長と立身出世を願って飾られたものでした。なぜ鯉を空高く掲げるのか?その由来については、中国の故事「登竜門」が大きく関係しています。中国では昔から鯉が「生命力のある力強い魚」とされていました。中国の黄河上流に「竜門」という滝があり、そこを登りきることができた魚は竜になることができるという伝説があったのです。龍になることを夢見て、数多くの魚たちが滝に挑みますがことごとく失敗します。そんな中で、一匹の鯉が見事に竜門を登り切り、龍となって空へ上っていきました。この故事から、空高く舞う鯉のぼりは立身出世の象徴となり、お家発展を願う武家社会の縁起物として重用されるようになったんですね。
日本の室町時代末期、戦国武将たちが戦闘中に掲げる「旗指物(はたさしもの)」を、端午の節句に虫干しを兼ねて飾るという習慣がありました。やがて庶民の中でも経済的に裕福な人たちが、武家の風習をまねて端午の節句にのぼりを立てるようになります。これが日本における鯉のぼりのはじまりといわれています。当時旗指物には家紋だけが描かれていましたが、庶民のあいだでは武者や金太郎などの絵が描かれていました。これらは旗指物とは区別して、「武者のぼり」「絵のぼり」「節句のぼり」と呼ばれていました。
庶民にも広まった鯉のぼり
江戸時代になると、将軍家に男の子が生まれると家紋つきの「のぼり」を立て後継ぎの誕生を祝い、一家の繁栄を願う風習がありました。これは将軍家でのみ行われていた風習でした。そんな中、江戸時代中期になると、将軍家、武士に限らず、町民の間にも男の子が生まれたらのぼりを立てるという風習が広まっていきました。この頃、ある町民が中国の故事「登竜門」伝説に習い鯉を描いたことで、鯉のぼりの原型が生まれたとされています。竜門を登る鯉のようにわが子が健康に育つようにという親心と、将来は大きく出世できるようにという願いが、鯉のぼりには込められていたんですね。
当時の鯉のぼりは、お家存続・発展のための嫡男(長男)の成長を願った黒の真鯉(まごい)一匹のみでしたが、明治時代には真鯉と合わせて赤い緋鯉(ひごい)もセットで揚げられるようになります。その後明治から昭和にかけて、真鯉と緋鯉(ひごい)で父子を表す親子の鯉のぼりが定着していきました。ちなみに真鯉が「おとうさん」になったのは、江戸時代に比べ明治期は子供の生存率が上がり、子供を中心に考える必要性が低くなったことと、家父長制の下で父権が重視されるようになったことが理由とされています。さらに昭和に入ってからは鯉のぼりは家族のイメージをも表すものとして、青い子鯉(こごい)も揚げられるようになりました。
吹き流しと矢車の意味
鯉のぼりの一番上には5色の吹き流しが飾られていますね。これは中国の五行説(五行思想)に由来しています。五行説の考え方として、万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという思想があります。それぞれに「青・赤・黄・白・黒」の5色が当てはめられているんですね。吹き流しにはこの五行説の5色が使われいて、主に魔よけの意味合いで用いられています。
それと、鯉のぼりを括り付ける柱の頂点にある「矢車」は、風車のように矢羽根がつけられており、風を受けてクルクルと回る構造になっています。矢車の矢は武家社会における武具の弓矢を表していて、正月の縁起物である「破魔矢(はまや)」と同様に、矢で邪悪な気を打ち払う意味がこめられています。
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