龍馬伝だけでない~ペリーを驚かせた日本人~

まずは御礼を申し上げます。

アマゾンキャンペーン第1弾無事終了しました。ご協力いただいた皆様ありがとうございました。特に書評を書いてくださった方々や、関係者の皆様にはこの場を借りて御礼を申し上げます。キャンペーン第2弾またご期待ください。

それでは今月最初の一言です。

龍馬伝だけでない~幕末の知られざる人物、ペリーを驚かせた日本人~幕末の琉球。歴史の表舞台には出てこないがすごい人物が琉球にいた。

ペリーは日本に来る前に何度も琉球に立ち寄っている。
日本や琉球の出方次第では植民地にしてやろうというくらいの勢いでやってきたペリー一行であったから、交渉のテーブルでは大国の威信と武力でさぞ横柄な態度であったに違いない。そこで琉球側にいた琉球役人の一人が板良敷朝忠(いたらしきちょうちゅう)。

朝忠は、言いたいことをいうペリー一行に向かって、突然英語でバーン!と国際法から日本の状況など一を気にまくしたて、ペリー相手に一歩も引かない外交をやってのけた。
(ペリーサイドは英語を理解する人は皆無と思い、言いたい事言っていた。)
実は朝忠は中国に留学しており、列強の動き、英語・フランス語・中国語・日本語と堪能であった。

その後、ペリーが日本(幕府)とも交渉するということがわかり、彼は「日本が少しでも攻撃を仕掛けてきたら即占領。なければ通商交渉をする。」という、聞き出していたペリーの本音を書簡にし、時の老中阿部氏に送り報告していた。

そのおかげで、幕府はペリー到着の際には目的もしっかり解っていたので、万全の状況で交渉につくことができた。もし彼の書簡が届かず、幕府がペリーに攻撃を仕掛けていたらどんな事になっていただろうか?
彼は幕府の、日本の危機を救った。

しかし謎が残る。

老中といえば当時の首相と言っても過言ではないが、老中が彼の書簡を信頼したということは、彼の事を知っていたということに他ならない。
ただ、彼の役職は架空の役職であり、また琉球との修好条約を結んだ際の押印も、王朝のものではないことが明らかになっている。
いったい彼は何者であったのか?

ペリーは最初に会った日本人のインパクトがとても強かったらしく、部下に「この国のサムライはとっても勇気があり知識もある。」と漏らし、占領政策ではなく通商条約にしたことに満足し、幕府との交渉ののち再び琉球に立ち寄っている。朝忠にお礼を言うためであった。

これがペリーと朝忠の最後の別れとなる。
朝忠はその後琉球版安政の大獄に遭い、琉球を離れ薩摩の島津斉彬に招聘されたが、移動中の海上で謎の死を遂げる。

板良敷朝忠・・・
歴史に「たら/れば」はないが、彼が明治新政府にいたら、また違った国造りになっていたのかもしれない。

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