ケネディ大統領に影響を与えた日本人
アメリカでもっとも若い43歳で大統領になった
ケネディ大統領は、イメージでは若く、カリスマ的な大統領という感じもするが、
人生前半までは、劣等感、健康不良、コンプレックスなど多くの負を背負っての青年時代を送った。
優秀な兄がおり、常にコンプレックスにさらされ、しかも決して成績もよくもなかった。
彼の家は名家といわれるような裕福な家庭で父はイギリス大使も務めたほどで、後年ケネディの政治家
としての資質が出てくるのは、第二次大戦中にヨーロッパを視察したことが大きなきっかけとなったと
言われる。大学は名門ハーバードへ進むが、とてもケネディの成績ではいける大学ではなく
父の力で入れてもらったというのが有力な説に成っているほどだ。しかしケネディはここが大きな転機
で、ヨーロッパで見識を広めたことを論文にし、それが教授の目にとまり出版をするに至った。
そしてこれがヒットし、しかもその販売益をイギリスに寄付をした。
その後も第二次大戦に出陣し、日本軍に乗っていた船を撃破されたり、
紆余曲折もあったが、政界入りをする。
政治家として最初から高名で合ったわけではなく、応援演説でのスピーチが素晴らしいという声が上がり、
次第に大統領候補として動くようになって行く。
有名な演説の言葉としては
「アメリカ国民よ、国が諸君の為に何ができるのか問うのではなく、
諸君が国の為になにが出来るか問うて欲しい」
今に残る名スピーチといわれますが、これは抜粋で実際にはもっと長く、世界の人々への語りかけも内容には入っている。
大統領になって日本人記者が
「日本でもっとも尊敬する政治家は誰ですか?」という問いに対して
「それは上杉鷹山です」と答えた。
これは、ケネディが内村鑑三の「代表的日本人」という本を読み知っていたのだと思われる。
上杉鷹山は、江戸中期の米沢藩の建て直しで有名で、藩財政は事実上破産(会社でいえば倒産)状態だった
藩を建て直し、日本一裕福な藩へ導いていきます。実際には上杉鷹山の改革も失敗の連続でした、
しかし、失敗すれば原因を探り、また対策を立てて新たにチャレンジしていき、最終的に成功した。
藩財政での負の遺産は、短期間ですぐにできるものではなかった。そして現状を良くみて
すぐ出来るもの、効果が出やすいもの、そして時間がかかるもの、様々な提携を探るなど
新しい試みを行いながら藩改革を進めていった。
ケネディは当時のアメリカでの諸問題に状況を重ねながら見ていたのかも知れませんね。
実際に、キューバ危機やソ連との宇宙開発競争など、国内外に難問奇問が山積みでした。
先のスピーチの元になったといわれる上杉鷹山の「伝国の辞」というものがある。
これに大きく影響されたと語っていたそうです。
「国家があなたになにをしてくれるではなく、あなたが国家になにができるか?」
これは凄い言葉ですね。
国家を、社会とも、会社とも、地域とも、言い換えれば、
自分が何かの為に何ができるか?
日本の志と同じですね。それを人類がもったらどんな素晴らしい社会になるか?
ケネディが目指した世界観の雛形は日本にあったかも知れませんね。
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