偉人の仕事術 高杉晋作 明治維新の先駆け

公開日: : 最終更新日:2017/10/23 偉人伝 ものの見方

takasugi  高杉晋作 明治維新の先駆けとなる奇兵隊を組織した

この長州の快男児の活躍がなければ明治維新はもっと時間がかかったかもしれない。

度胸、作戦も的確で風雲児の活躍で時代の流れを変えたと思えばこの世をさった。

坂本龍馬も若くして世を去るが、この維新という大変革期に生まれ明治維新の先鞭をつけたと

いうことのみに生まれてきたとも見える。

享年27歳でこの世をさるが、明治維新をするだけに生まれてきた感もある高杉晋作は、

伊藤博文、山縣有朋、など明治維新で活躍する人材を多く輩出した松下村塾に学び、

後に、久坂玄端と並び吉田松陰からは「防長一流の人材なり。従って天下の英才なり」と賞されている。

松下村塾自体は身分制度の中で低い人が多かったが高杉晋作は身分も高く、またそれゆえに親からも

松下村塾へ行くこと自体も賛成されておらず、後に親も美人な嫁さんでもいれば血気づかず

よいのではないかと長州でも評判な美人を嫁にするが、結局これも高杉のエネルギーの前には有効ではなかった。

晋作自体は、最初藩校に学びその後に松下村塾へ行き、さらに江戸遊学も認められて江戸滞在の折に吉田松陰が

安政の大獄で捕まり小伝馬町の牢獄に入れられていることを知ると何度も獄中に行っているが、その後江戸遊学を

中止して長州に戻る際に吉田松陰は処刑されていた。

吉田松陰は徹底的な行動主義で、「行動せずになんの学問か」というほどに学び行動する、行動しながら学ぶという

師でありながらも実践的な姿を見せたことは晋作達、門下生の心には響いたことであろう。

上海留学で更に目覚める

藩に戻ってからは今度は海軍に興味を持つ。これは当時尊皇攘夷という外国を敵とみなし打ち破るということで

海軍の重要性を強く認識していたこともある(吉田松陰から学んだともいえる)

そして藩の船で江戸へ再び行くことになり、このときの遊学ではさらに、佐久間象山、横井小楠というこの時期

活躍した人物とも交流し更には見識を広めるとして東北まで足を伸ばしている。

その後、薩摩の五代友厚らと幕府随行員として長崎から清へ渡っていくが、このときの清は既に欧米の植民地になりつつある

実情や太平天国の乱の話を聞くなどして、今のうちに日本も変わらなければ清と同じように植民地になる。

そのために今の状況を打破しないとならないということを実感したという。

この上海留学での経験が晋作にとっては大きな意味をもつことになった。

帰国後、ちょうど薩摩による生麦事件が起きた。これは薩摩の大名行列の際にイギリス人が礼を取らず

馬上で横切ろうとしたことに、何度か注意しても態度をあたらめないことに薩摩藩士がそのイギリス人を

切り捨てたという事件で後の薩英戦争にも発展している。

晋作はこの様子をみて、長州も行うべきだとし様々な攘夷の作戦をたてるが中々実行までには行かなかった。

唯一建設中の英国大使館を焼き討ちにしてしまうことだったが、藩がこの過激な行動を恐れて長州に帰藩することを

命じられる。

奇兵隊創設

やがて攘夷期間の規制が解けると、長州は関門海峡から外国船砲撃を開始するが、逆にイギリスフランスから

砲撃を受けて惨敗してしまう。この際に晋作は下関の防衛担当したが、

この前に圧倒的に兵隊も少ない、武器も少ない。そうした中で藩の正規軍とは別に身分に拘らない志願兵による

奇兵隊を創設した。この奇兵隊は江戸時代つづいた身分制度の崩壊と見ることもできる。

軍隊で武士以外のモノ達が戦うというのはこの時初めてであった。

そのころ京都では薩摩と会津が手を結び、京都で長州対薩摩、会津連合の戦いがおき(禁門の変)長州は破れ

同志の久坂玄端もなくなり、且つ長州は朝敵となってしまった。

一方下関から外国船砲撃をしていた長州にはイギリス、フランス、アメリカ、オランダの四カ国連合艦隊が下関を

占拠させた、惨敗であった。

奇兵隊は後に明治維新でも活躍するが、とても強い軍隊となった。

これは、武器を洋式にしたことから起きる戦術的なものであった。

これまでの日本的な戦いでは密集してまとまった軍隊を指揮官が動かすということ

が多かったが、一箇所にまとまっていると敵の集中砲火を浴びることもあり奇兵隊では

分散して戦う戦術を取るようにした。そのために一人一人が指揮官がいなくも自分で判断して

戦えるような訓練をおこなった。

そのため戦術を一人一人に理解させてたとえ指揮官がいなくても動けるように訓練をした。

また、身軽に動けるように鎧などは身にまとわす係争にした。

さらに走り回るという戦いから8時間で50キロほど走れる訓練や相撲や武術の訓練

また、軍事訓練だけでなく教養を身につけるように孟子などの教育を行い勉学が出来るものは

出世させ、訓練ができない足りないものは除隊させたという。

軍制を革命的に変えたことは信長の軍事改革に匹敵する位のものだったと思う。

敗れても外交交渉で勝つ

藩は外交交渉で晋作を任命した、高い身分そしてなによりも度胸もある。

4カ国相手に敗戦しての外交交渉は高杉晋作が初めてであろう。

この外交交渉では、様々な条件を4カ国が長州に突きつけてきたが、ほとんどを晋作を飲んだ。

実は、外国の力(武力)にはまだ日本は及ばない、それであれば外国との通商を盛んにして

日本の力をつけていくことを進めたほうが良い、そう考えていたとも見える。

交渉では、「領土の租借」という点が大きな争点になったが、晋作は譲らなかった。

これをすれば上海と同じ植民地になる。4カ国も負けたくせに何故譲歩しないのか!と

いきり立つ。そのときに、朗々と「古事記」を朗読してわが神国日本はこのような国だと

ずっと詠っていたという。交渉では結局この「領土の拝借」ということは取り下げさせることに

成功した。古事記を歌っていたのは幕府の国ではなく「天皇の国」であると伝える為ではなかったと

言われているが真相はわからない。

このときの長州は悲惨な状況で朝敵とされ、外国から攻められるはまさしく存亡の危機であった。

朝敵となった長州には幕府へ恭順すべきという意見が強く、幕府も出始めて奇兵隊など解散を命じてきた。

晋作が作った奇兵隊だが、身分を問わない、さら封建制度の否定で実行していることから商人、町民からは

非常に支持されてきた。

幕府は長州に対して征伐の兵をあげ、長州は保守派で固まってきており晋作らも、追い詰められる。

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功山寺決起

藩政を保守派から奪取しさらに幕府とも戦うという決意を持ち

解散を命じされている奇兵隊や諸隊がなくなれば維新はなくなる。

維新もできず、長州も滅びる。

まず藩上層部へ対して戦いを挑む、その後は幕府と戦い倒幕を行う。

今、立ち上がらろうと、解散命令を出されている奇兵隊や諸隊に声をかける。

最初集まった兵は70名程度だったといわれている。

ここから奇襲作戦など行いやがて藩政を握るに至るが、実はここには大きな支援者達が

いた。

晋作に感銘した商人、町人達である

実はこの時期経済状況も厳しく商人たちも町民もこの時期のインフレなどで生活苦があり

それも一向に改善されず、身分、封建制を否定し新しい時代を創ろうとしている晋作に

希望をもち、物資、資金面で協力をしやがてこの支援活動が長州全土まで広がることになる。

階級を重んじない晋作達の運動に文字どうり財産もかけ命懸けで支援していったのである。

最初は70名ほどの諸隊も藩の正規軍を次々に破る快挙が伝わると徐々に増えてきて

ついに藩政を握り、ここから長州は倒幕へ一気に舵をきっていくことになる。

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高杉晋作像

晋作率いる諸隊は各隊ごとにリーダーが出てきて晋作は海軍を任されるようになる。

そして新式の武器の調達を開始するが、この少し前に京都では坂本龍馬の斡旋により

薩摩との薩長同盟が成立している。このことから第二次長州征伐には薩摩が加わらず

更に、第二次長州征伐後は維新、倒幕へと共に歩みだすことになる。

晋作は小倉城を攻略しようと試みたが中々落ちず、幕府の威信も掛けたこの戦いだったが

ついには小倉城も落ち、陸路では大村益次郎率いる諸隊藩軍が各地で最新の軍事装備などを活用し

幕府軍はついに退却に追い込まれることになった。

晋作はこの小倉城を落と戦いの後にわずらっていた喀血でなくなっている。

ここから倒幕へは大政奉還もあり一気に進むことになるが、明治維新の夜明けを見る前に

この世を去っていった。

晋作自身は世の中の「攘夷から倒幕開国」という大変換を指し遂げる位の人物であったが

冗談も好き、酒も好きで女性にももてたという。

龍馬とは第二次長州征伐の折に、上海で手に入れたピストルを渡したりしており小倉城での幕府との

龍馬も海軍を率いて共に戦っているが、その際に晋作が三味線を弾きながら軍事采配をしているものを

みて「こんな肝が据わっている男は初めて見た。この指揮官の相手をする幕府にはこのようなものはいないだろう、

この戦は我らが勝つ」と思ったという。

高杉晋作は最初は藩校で学び後に松下村塾で吉田松陰に素養を開花され江戸遊学で当代一流の方々と接触もし

更に上海留学で押し寄せる欧米列強の姿を目の当たりにしてその慧眼に磨きがかったのではないだろうか?

今の時代であっても、書籍に学び、一流の人から学び、現地を見る。これはこれからも変わらない

学び方であると思う。晋作自体は行動するために学ぶということがはっきりしていたので

どの部分が重要か、そうでないか?自分が成す事は?ということが明確で合ったと思う。

時代の変革期には様々な人物が現れるが高杉晋作も明治維新では欠かすことの出来ない一人であるし

その短い人生からも学べる点は多いかと思う。

 

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石川博信

石川博信

2009年ジーレックスジャパン株式会社創業。 日本の文化や歴史好き。小学校時代は通信簿で「オール1」の落ちこぼれ。日本にある素晴らしいものごとを国内外に広めていきたい。 それが私たちの想いです。長い歴史と四季のある気候に育まれた日本文化は、国内では衰退しつつある一方で、海外では日本の食文化、武道、芸道からコミック・アニメまでその愛好者は増加しています。 国内においては、日本の持つ素晴らしいものごとを見直し、海外においては、様々な商品にある歴史、ストーリー、想いを伝えていく。 日本のものごとが国内外へ広がり、その中で日本の文化や精神性に触れる機会を多く創出し、日本の素晴らしさを知って頂く事が、日本そして人類にとってもより良い社会へ繋がると考えております。
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